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平成20年5月17日(木) 今日、この時。

PRESENT-DAY, PRESENT-TIME
このフレーズが好きだ。

始めてこの言葉を知ったのが、ちょうど 10 年前。あの頃は、まだネットという存在が、まだまだ世の中には一般的に認知されてなかった。一部では、ごくごく盛り上がりがあったものの、今日のような、パソコン(Perconal Computer)だけではなく、携帯端末といったつながり、IC カード機能との連動、電子マネーといった、生活に溶け込むような事は、多くの人にとって、夢物語であった。

以下、駄文。読むだけ時間の無駄かもしれない。
暇な人は、ちょっと酒でものみながらであれば、ちょうどいいかもしれんが、正直あまりおすすめしない。


気がつけば、ユビキタス、すなわち、どこにでも偏在するような存在、それがネットワークというもの。
どこにでもあるのに、でも、そこには無い。
ものすごく不思議なのだけど。

こうやって目にしているこの文章は、パソコンないし携帯電話といった端末上にあるデータでしかない。こうやって表示されている、文字という存在は、液晶ディスプレイのシリコンに加えられる電圧の強弱によって表示される RGB ( RED: 赤 GREEN: 緑 BLUE:青 ) といった数値の組み合わせによる色表現を 1,024 x 768 という 786,432 個に区切られた格子状の強弱によって、認識しているにすぎない。また、ディスプレイに表示されているデータというモノですら、ネットワークを経由して流れるパケットというデータであり、しきつめるところ、これも電気信号の強弱だったりする。でもって、サーバの中に保管されている元々のデータですら、やはり電気信号であるところの強弱、デジタル的に言えば0か1かといったデータの集合体ですらない。

ん、そういえば、こうやってパソコンに入力するキーボードというものですら、キーを押すことによって電気信号が送られる仕組みであり、そのキーを上下する仕組みというのは、人間の手であり指の上下運動によって伝えられるものである。その手なり指の動きというのは、筋肉や欠陥の伸張縮小によってもたらされるものであり、それはシナプスという神経伝達物質による影響の有無によりもたらされるものである。その、いわゆる神経を司るのが人間の脳みそであり、そこでは多くの脳細胞がニューロンなり受容体なりを通じて、やりここでも電気信号のような物質でもって情報をやりとりしているものである。

こうやって考えている存在、なんらかの数値の集合を超えている存在というものが、いまここで、こうやって、パソコンという装置を通じて、自分の意志を、形にしている。この形というのは、純粋に数字の0と1だけで表されるようなものではない、と思うのだ。

しかし、それぞれの信号には意志というものはない。人間の思考というものですら、電気信号の固まりでしかないのだろうか。もしそうであれば、今日ここで、今まさに、こうやって画面を見ながら、思索に老けている自分という存在というのは、何者なのであろうか。それは敷き詰めると、ほんの小さな電気信号というか、脳の中の物質による化学反応によって思考というものが想像されていえるのであろうか。

いやまてよ、であればだ、巨大なストレージ装置の中にも多くのデータが詰まっているはずだ。であれば、それらストレージの中に蓄えられている膨大な0と1の集合体と、人間の脳の中の0と1の集合体との違いとは何であろう。もしかしたら、ストレージがもっともっと大容量になることで、より人間の脳のレベルまで記憶容量を増やすことができれば、そこには人間のような意志、つまり魂が宿ろうとでもいうのだろうか。

膨大なストレージだけではなく、それらがネットワークを通じ、有機的にコンピュータ環境が結びつけられ、まさにコンピュータ・クラウドというかグリッド状のなにか、そこには何らかの意志が産まれるのでは無かろうか。

そんなばかな話があるか、と思うかもしれないが、ちょっとまってほしい。そもそも、生命(地球上で言うところの有機生命体)というのは、どうやって産まれたのか、実はまだ解明されていないらしい。割とアミノ酸による化学反応という説が有力なようだけど。って、はじめの生命があったとして、それも単なる細胞でしかないわけで、そういう意味では、それも何らかの0か1かといった数値とも言えなくもない。

いつ、どうやって人間が"意志"というべきもの、すなわち魂といえるものを獲得したのであろうか。生命としての本能ではなく、こうやって考えても何の利益もないことを理屈をこねて考え惚けるこの存在。それとて、細かいミクロレベルでは単なる信号の集合体でしかないはずなのに、そこには意志があるように見えている。なんとも不思議な存在、それが生命というものらしいのではあるのだが、しきつめると、細胞レベルでは意志なんてものがないのに、大きくマクロ的に見ると、そこには意識というものが、どうやらあるらしということになっている。

ところで、人間が集まると社会というものが形成され、そこには何らかのルールなりしきたりがうまれ、消えたり、淘汰されたり姿を変え、時を経る。それは生きるという目的でもって、遺伝子ないしミームというものを伝えていく本能というものである、ということを昔の偉い人は考えたとか考えなかったとか。で、つまるところ、もしかしたら、データの集まりであるコンピュータのネットワークというものが、人間という手から束縛を逃れることができる世界をつくることができたら、コンピュータであるところの彼女・彼らが、人類の正当なる後継者として、新たな歴史なり生命の営みというものを、延々と続けていくことに、なるのだろうか。であれば、人間というものは、いずれ滅び去る嘗ての恐竜といったものかもしれないし、もしかしたら、いまは実は生命の進化という時期にあって本当に大変な時期を迎えているかもしれないな、なんて思うわけではあります。

あわよくば、ネットワークという数値の集合体という海に、新たな意志が宿らんことを。

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コメント (2)

HRSman:

五感と喜怒哀楽と学習。

「五感で感じる」という脳の電気信号変化と、
「喜び」「リラックス」「怒る」という脳の電気信号変化と、
その電気信号エネルギーを生み出す構造と手段が、0と1の電気信号から生み出せるか?
ふと、そんな思いがしました。

考える・想像する脳の思考がCPUとプログラムで出来たとしても、ヒトが感じ思う喜び・悲しみの感情はCPUとプログラムでは絶対に作れないと思う。
が、
(映画で見たシーン)人工体液に覆われたヒトの脳に、電気信号配線が張り巡らされ、その先にCPUとプログラムのコンピュータがつながれた、脳とコンピュータの複合生命体は、とんでもない者?物?になる。
それは、においも感じ、音も聞け、動きも感じ、疲れも感じる。そう、彼女との甘い生理的刺激も食事をした時の満腹感も感じる。
こんなとんでもない奴が、近い将来地球上に現れると思う。

一つ間違えば、絶対的な脅威に成り得るが、コンピュータが分散されてネットワークでつながれ、処理結果が分散処理で導かれる構造であるなら、人類に恩恵を与えてくれると思う。

そんな思いを巡らした、刺激的なブログでしたよ。

追伸
例のマップは、25日の試験の後で送りますので、暫く待ってください。
期待に副えるかなんとも言えませんが。

HRSmanさん、こんばんは。
マップについては余裕のある時に適当におしえていただければ結構ですよ(・∀・)

つまるところですね、変に科学が進化したおかげで、人間という存在そのものが、実は存在という、考えそのものが揺れているのかな?ですとか。ちょっと哲学的な事も考えたりするわけです。

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2008年05月16日 01:00に投稿されたエントリーのページです。

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