人々は、今日もネットを彷徨い歩く。勿論、この私もそう。
だが、そこにあるものは、実は単なる情報という数字の羅列にすぎないのか。
これまで人類は進歩の過程において、まず「言語」を取得し、自分ないしは自分たちの群れ以外の存在と交信(コミュニケーション)する手段を得た。次に「筆記」を得、素晴らしき(?)記録は紙や石などの媒体に記録され、あるものは文学として評価され、あるものは芸術として今日に至る。そして近代になり「通信」が発明され、無線通信では場所を介さず即時(リアルタイム)に会話が可能となるようになった。そこに登場したのがコンピュータ・ネットワーク(インターネットやパソコン通信)である。
しかし、客観的に現状をとらえると、今目の前にしているこのパソコンのディスプレイですたら、R(Red:赤)・G(Green:緑)・B(Blue:青)の組み合わせによって表示されている情報の一部にすぎず、まして、その情報によって構成され人間が認識している文字や映像ですら、ネットの回線上では 0 と 1 の組み合わせによってのみ構成された情報でしかない。もともと情報という言葉の意味は旧陸軍省が英語の information をフランス語 renseigenements から日本語に翻訳した過程で生まれた敵情報告や情実報知から生まれた言葉であり、情報という言葉そのものにも何ら意味を見いだそうと試みることすら無謀かもしれない。
ある情報は日々産み出されるだろうし、そしてまたある情報は、人知れずファイルの rm (delete:削除) やサーバの電源停止によって永久に失われるかもしれない。でも、それはネット上のことであり、たとえ 0 と 1 によって構成された情報だとしても、ひとたび人間の脳に入ると、それは記憶となり得る。記憶とは曖昧だが、ある時は感動、喜びもあるだろうが、嫉妬や嫌悪も記憶であり、それは感情とセットとして脳の中に保存される。とはいえ、脳も実のところは神経シナプスの繋がりにより記憶が構成されるのであり、実の所はコンピュータの 0 と 1 の処理に近いものと最近の脳科学では言われているそうだ。
結局の所、こういった類を雑文というのだが、まったくもって時間の無駄というか、こう書き記す事に何の意味も無いことを証明するために、あえて書き記す、という行為こそが意味があるのではないかと思い、兎にも角にも書き残す次第だが。
ま、よくある馬鹿な文章のうちの1つだよ、と思う。