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70.雑文 】 2007年01月03日 19:13

 人々は、今日もネットを彷徨い歩く。勿論、この私もそう。
 だが、そこにあるものは、実は単なる情報という数字の羅列にすぎないのか。

 これまで人類は進歩の過程において、まず「言語」を取得し、自分ないしは自分たちの群れ以外の存在と交信(コミュニケーション)する手段を得た。次に「筆記」を得、素晴らしき(?)記録は紙や石などの媒体に記録され、あるものは文学として評価され、あるものは芸術として今日に至る。そして近代になり「通信」が発明され、無線通信では場所を介さず即時(リアルタイム)に会話が可能となるようになった。そこに登場したのがコンピュータ・ネットワーク(インターネットやパソコン通信)である。

 しかし、客観的に現状をとらえると、今目の前にしているこのパソコンのディスプレイですたら、R(Red:赤)・G(Green:緑)・B(Blue:青)の組み合わせによって表示されている情報の一部にすぎず、まして、その情報によって構成され人間が認識している文字や映像ですら、ネットの回線上では 0 と 1 の組み合わせによってのみ構成された情報でしかない。もともと情報という言葉の意味は旧陸軍省が英語の information をフランス語 renseigenements から日本語に翻訳した過程で生まれた敵情報告や情実報知から生まれた言葉であり、情報という言葉そのものにも何ら意味を見いだそうと試みることすら無謀かもしれない。

 ある情報は日々産み出されるだろうし、そしてまたある情報は、人知れずファイルの rm (delete:削除) やサーバの電源停止によって永久に失われるかもしれない。でも、それはネット上のことであり、たとえ 0 と 1 によって構成された情報だとしても、ひとたび人間の脳に入ると、それは記憶となり得る。記憶とは曖昧だが、ある時は感動、喜びもあるだろうが、嫉妬や嫌悪も記憶であり、それは感情とセットとして脳の中に保存される。とはいえ、脳も実のところは神経シナプスの繋がりにより記憶が構成されるのであり、実の所はコンピュータの 0 と 1 の処理に近いものと最近の脳科学では言われているそうだ。

 結局の所、こういった類を雑文というのだが、まったくもって時間の無駄というか、こう書き記す事に何の意味も無いことを証明するために、あえて書き記す、という行為こそが意味があるのではないかと思い、兎にも角にも書き残す次第だが。

 ま、よくある馬鹿な文章のうちの1つだよ、と思う。

70.雑文 】 2007年01月07日 20:22

 二次元にようこそ!

 ある一点のみをとらえると、
 ベトナム戦争はアメリカの「負け」言われる事が多いだろう。
 だが、それは確かなのだろうか。
 現在進行形であるイラク戦争(湾岸戦争~現時点に至る占領下のイラクも含める)は
 「勝ち」か「負け」か

 戦場をベトナムのみという世界の中の局地で見た場合、
 確かにアメリカは撤退し、負けたと言えるであろう、
 ホー・チ・ミン市が陥落した時点で。

 だがしかし、視点を歴史という流れで見れば
 勝ったか負けたか安易に判断できる物では決してない。
 歴史の流れを、単に点のみでしか捉えないことが
 なんと危険な事かと、歴史は教えてくれるのではないだろうか。

 最近の情報を見ていると、
 イラク戦やアフガニスタン戦という局所でしか考えられなくなっている、
 そう考えることしか出来ない、脳が矮小化している愚かな私がいる

 こういうたとえ話がある。
 蟻は自分の巣(nest)の中を自由に行き来しているつもりらしい。
 巣の中は筒状の世界、そこには前後しかない2次元の世界。
 彼達には人間の知る3次元(点・平面・空間)を知覚できない。
 知覚出来ないのに、理解は出来るのだろうか。
 羽を持つ女王蟻と一部の羽蟻のみ空を飛ぶ事が出来る。
 そして3次元を知覚出来る。
 飛ぶ事の出来ない蟻たちは、
 前後しかない限られた世界でも満足を感じているのだろうか。

 歴史に戻ろう。1975年4月30日。米軍の南ベトナム撤退と共に、
 隣国カンボジアではロン・ノル政権が崩壊した。
 カンボジアで実権を持ったポル・ポトは知識階級の粛正を行う事となる。
 粛正と言えば聞こえが良いが、なんのことはない、
 単なる大量虐殺の事だ。
 国内は混乱し、長きにわたる内戦へ誘われた。
 これも歴史の一面ではある。

 現代から過去を眺めるとき、
 点で「負け」のみを考える事が何の意味もない事を教えてくれるだろう。

 ここでふと思う。インターネットとは……。

 ネット(web)につながる事が出来る限り、そこでは距離という旧世代における通信手段、すなわちコミュニケーションにおける時間的制約は無くなった。

 インターネットでは3次元の制約を取り払ってくれたのだ。

 物理的に羽田からサンフランシスコまで移動するには飛行機で約11時間かかるが、電子メールであれば、ものの1秒もかからない。かつてネット対戦といえば「LANケーブル」による LAN 内という閉ざされたネット空間のみ可能だったが、今では、リアルタイムで日本・台湾・オーストラリア・アメリカ・イギリス・イタリアからネット対戦、しかもカーレースを出来るのだから、時代の進歩というのは恐ろしい(素晴らしい)。

 一見したところ非常に多くの情報が我々の手に渡ったように見える。
 だが、本当に制約は無くなったのだろうか。
 渡っているのではない、
 そう「見える」だけなのだ、と思う。
 うまく言葉には出来ないのだが、
 それは自分が蟻のように制約された世界に生きているからではないだろうか。

 今日もとあるメーリングリストで誹謗中傷の類の顛末が流れた。

 ネットの世界は1つじゃない、多くのホスト・コンピュータにつながれた複数の世界が、あたかも画面(ディスプレイ)という二次元の世界を通しているから、まるで三次元のリアル・ワールド(いま此処にある現実世界)のように錯覚しているにすぎない。実際、そのメーリングリストなり掲示板が厭になったのであれば、そこを「自ら」立ち去ればよい。ただそれだけだ。厭な気分をするくらいなら、パソコンの電源を落とし、ネットの回線を切り(ハサミでチョキンと LAN ケーブルを切るのが宜しいかと、無線 LAN ならルータを電子レンジでチンしればいい)・・・とまでは言わないが、別の掲示板なりメーリングリストなり他のコミュニティに移ったり、それも嫌なら自らコミュニティを立ち上げればいい。ネットの世界は現実世界上の資源=リソース(サーバのメモリ容量・ハードディスク容量・CPU処理能力・回線やバックボーンの太さ・電源)を消費をしているが、今のところ、ネットの世界は過去のパソコン通信の時代(といっても10年ぐらい前ですけど)に比べれば随分と住みやすくなった。わざわざ、狭い所で相手を蹴落とし毒を吐く必要も無い。それとも、単に自己顕示欲を満たしたいだけなのか?

 檻の中の住人は、檻の中の自由に満足する居る限り、本当の自由というのを感じられない、という。昔の偉い人が言った言葉だが、誰の言葉だか忘れた。これは10年ほど前のパソコン通信で偶然見かけた書き込みがこれだった。今でも忘れない。

 我々は檻の中の住人だ。

 だが、二次元のネット(たとえネット空間が 3D View な表示になっても、画面=ディスプレイという二次元のインターフェースを介する限りは二次元のままだろう)だという事を自覚さえすれば、誰でもその檻を自ら抜け出る事が出来る。最近、それを履き違えて三次元のリアル・ワールド(現実世界)と二次元(ネット)を混同しているような方々を見受けるのは気のせいだろうか。10年前だって、まだ、ネットなんてアブナイ"仮想社会"だってマスコミやらお偉い学者センセー方が言っていたのにな、仮想社会=下層社会=パソコンなんか触って喜んでるアブネー連中の巣窟、それがネットじゃなかったのか? 笑っちゃうよな。

 動物園の猿じゃないんだから、少なくとも、私たちが自由を望めば移動も出来るし、新天地を開拓する事もできる。ネットの話だけどね。

(初出:■2004:01:01 二次元にコンニチワ を元に現時点の情報を元に修正・加筆)

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