去年(2006年)流行したインターネットを駆けめぐった言葉に SNS (Social Networking Service) = ソーシャル・ネットワーキング・サービスが挙げられます。その尤もたるものが、日本では mixi の株式上場により市場が沸いた事で社会的にある程度認知されたといっても構わないのではないかと思います。
ですが、私は「招待型」の SNS コミュニティには、どうも閉鎖的なイメージがつきまとうのは気のせいでしょうか。招待型の利点(メリット)は「友達の友達」が集まるコミュニティだから「信頼できる」という事があげられます。信頼できるというのは、コミュニティ上における掲示板(メッセージ・ボード)やプロフィールが実在するという前提(ここ重要、あくまで前提なのです)でコミュニティが形成されている点です。
逆説的に言うと、つまり「現実世界の繋がりがない人は参加できない」という負の点(デメリット)と背徳する関係にあるのではないでしょうか。
過去パソコン通信(草の根・大手両方)を経験した身からすると、今の SNS はそれなりに「うまくやっている新しいコミュニティ(社会)」だと考えることができます。仲の良い人たちでコミュニティを築くことができる、なんて理想的なコミューンなんでしょう。皮肉ではありませんよ。
ですが、意味もなく「招待制」をとり続ける事に何かしらメリットがあるのでしょうか。家族に例を例えると、それは血族のみの集団であり、外部からの血を受け入れる事はありません。婚姻・養子という関係で親戚という新しい繋がりが形成される訳ではありますが、同一種族(家系)による血統を保ち続ける事(所謂近親の類)は生物学学的に衰退するとも言われています。同じ劣等因子が存在する場合、それが継承される場合がある、と。ネットで言えば、同じ思考回路を持った者同士が集まれば、外部からコミュニティへの侵入者(コミュニティの方向性と反対する思考を持つ者)があれば排除する傾向にある可能性がある、とりわけ、日本という風土においては「協調性」が何よりも優先されますので、異文化の流入はコミュニティにとっては危機に陥るわけです。そういう意味では招待制という SNS サービスはなんとも素晴らしいものでしょう(繰り返し、皮肉ではありません)。
招待制ではない昔のパソコン通信では疑似匿名性ネットワークでしたが、今の SNS によるコミュニティよりもお互いの個人(personality)としての信頼感や情報(information)の信頼性が高かったように思うのは私だけでしょうか。招待制ではないが故、新しい人の参入は新しい血、すなわち異文化の流入であり、歓迎されたように記憶しています。これは私の周辺事情、私が在住している富山県の 1995 年前後の事情、そして Nifty-Serve(ニフティ・サーブ=一時期会員数 200 万人を抱え込んだパソコン通信大手、現在 @nifty としてパソコン通信のフォーラム機能サービスは終了)だけなのかもしれませんが。
パソコン通信は匿名世界と勘違いされている方が昔からメディアの方にはいらっしゃいます。ですが、実際には、会員登録時に本名・住所・電話番号等を書くのは草の根パソコン通信ホスト(個人が運営する自宅インターネット・サーバのようなもの)でも常識だったのです。その上でハンドル名/ハンドルネームといった匿名を用いたので疑似匿名性と表現させていただきます。
現在の SNS (mixi を特定して名指ししている訳ではありません)が「招待制」という制度をとり続ける限り、SNS は閉鎖的なコミュニティである事には変わらないと思うのですが如何でしょうか。今の招待制型 SNS は新しい形態のコミュニティに見えますが、実のところ、社会的には一歩前のコミューンのような存在に思えてなりません。コミューンは理想ではありますが、そこは閉ざされた世界であり、そこで満足する限り、新しい発見もなければ新しい挑戦も無いかもしれません。だって、そこが理想郷なのですから。
去年は友達の友達の空間までの安心空間 SNS mixi、その対局として匿名掲示板 2ch がよく引き合いに出されました。でも、これは視野搾取的です。匿名だから荒れる、コミュニティ社会の和が壊れるとマスコミは言いますが、私はそんな事は信用していません。なぜなら、10年前の今頃、NewsGroup の fj.usage などでは、実名(しかも大学名や所属機関・会社の看板をひっさげて)で 2ch のような(と書くと語弊を与えますので補足、2ch でもコミュニティとして素晴らしく機能している場所はあります。匿名だから悪いという対論として引き合いに出させていただきます)根拠無き罵倒と他人のことを察することもできない世界は既に存在していたのです。実際、今も面影は fj.news.usage や fj.news.policy などで見ることができます。弾劾されるべきなのは 2ch というコミュニティ・システムではなく、個々の「人」なのです。無軌道な暴言の発露は匿名だからとは限らないと思うのですが、如何でしょうか。例え実名であろうと、考え方の違いにより、現実世界では人は言い争い・戦争や殺し合いまでしているんですから、宗教観の違いだったり、色々な利権や思惑が動いているのですけどね。日本の現実社会では名を出さぬ論者による妄言もあれば、新聞記者@名無し、放送作家@名無しによる世論誘導もあるかもしれません。
つまり、閉鎖的 SNS が存在しつづけても、思考・思想の異なる人の流入・流出といった流動性を伴わない場合、そこからは何も新しい発見や想像は生まれない可能性が高いと言えるのではないでしょうか。単に"荒らし"を防止したいがために SNS を構築する事は決して悪いことではありません。逆にこう考える事もできませんか? ある人の招待で新しい人が参加して来た。でも、どうも SNS のコミュニティの方向性とは、なんとなく違う、そんな発言を繰り返す。アメリカでは異なる意見は歓迎される風潮にあると思いますが、日本においてはどうでしょう。異を唱える存在は場を荒らす犯罪者として断罪され、最終的には自らコミュニティを離れるか・管理人からアカウント削除を受けるでしょう。影響はそれだけに止まらないかもしれません。その問題とした人を招待した人にも影響を与える可能性もあります。あいつが呼んだから場が荒れた、そう言われれば、その人はコミュニティに居続ける事ができるでしょうか。別のコミュニティに移るという選択肢もあるのですから。今、形が違う多くのコミュニティがインターネットには存在します。
SNS の「招待制」というのは、日本の風土には合わないのではないか、そう思います。私は農家なので、最近団塊の世代が農家へ新規参入するという事がニュースに時々現れるのを気にしています。結論から書くと、農家は誰でも出来るわけではありません。新規に参入には農業を行う農地が必要なのは勿論、役所・役場にて様々な書類の提出、それよりも「農業委員会の審査」が必要な場合もあります。本当に農業がしたくても、出来ない人は多くいるようです(統計上の資料が無いので、あくまでネット上の様子を見た限りですが)。
本当にコミュニティに興味があり参加したい・貢献したい、なのに招待制なので参加できない、これはコミュニティにとっては損失となる場合もあるのではないでしょうか。勿論、SNS を否定している訳ではありませんが(それはそれで理想郷です)、「招待制」の SNS が持つ負の面について誰も触れていない事に対する事に私は危惧を覚えています。まるで全てのネット上のコミュニティが SNS に移行したらよい、そのような風潮には賛成できません。そうなってしまうと、コミュニティは SNS に参加する個々(personality)を重視するのではなく(当初は目的としていたかもしれませんが)、いずれ個々よりもコミュニティの維持(コミュニティの治安・安全・体面)の方が優先されてしまい、個々なんてものはコミュニティという見えざる支配者(多くの個々による思念の統合であり管理者ではありません)により、反体制というレッテルを貼られた個はコミュニティ上で社会的にどうでも良い存在として扱われ、最終的に反動分子としてコミュニティ上では抹殺される事になるのではないでしょうか、コミュニティの治安維持という正義の名の下で。まるで内ゲバ。
ですから、私は、そのどちらでもないパソコン通信のような疑似匿名性を持つコミュニティ、もしくは限りなく現実に近い匿名ネットワーク、そこでは互いに他者の個を尊重し、出入りも自由、現実世界では出会うこと・気付くことが出来ない新しいネットワーク、そこに回帰してゆくのが 2007 年の流れではないかなと思います。
今時な言葉を使えば コミュニティ 2.0 とでも言わせていただきましょうか。私はネットワーク・コミュニティというのは誰のものでもないと思っています。1992年、IIJ によりインターネットは誰でも利用できるようになりました(といっても当時の料金は高く、普通の一般家庭で使うには回線代金が月数万円代であり敷居が高すぎました)。1994 年に大手パソコン通信の Nifty-Serve(現 @nifty), PC-VAN(現 biglobe) が低価格のアナログ方式によるダイヤルアップ接続サービスを開始し、Windows 95 の発売によりブラウザという新しいインターフェイスを手に入れ、ようやく、パソコンを買って少しのお金を出せばインターネットにつながる時代が到来しました。
物理的な回線は、NTT なり、電力会社だったり、プロバイダの所有物だったりします。ですが、コミュニティというのは本来目に見えないものであってもいいはずなのに、なぜか「枠」にはめようとしている、それが「招待制」にあらわれていて、皮肉にも日本の風土を反映した旧来型の日本社会システムをネット上で再構築しているように見えるのです。ネットの可能性を自ら私たちは閉ざし、棄てようとしているのではないでしょうか。
ネットとは、コミュニティとは、誰のものなのでしょう?
今一度、私たち一人一人が自分の立ち位置を見定めなければ、
「水は低きに流れる」かのように、
そこに待ち受けるものは。