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私(前佛雅人)が実名でネット活動をしている件。

 私がインターネットで活動している時は、基本的に本名を使っている。メーリングリストの投稿や掲示板であっても、よほどのことがない限りは実名で活動している。なぜなら、昔からインターネットでは実名を通しているから。ただそれだけであり、それ以上でも、それ以下でもない。

 実名で過去10年間続けて活動しているのは、インターネットに新しい社会の可能性を求めたから。だから、ハンドルネームという匿名を棄て、敢えて実名で活動する事になった。それだけである。


 私がインターネットでの活動をしようと思った時(今から約10年前)は、まだパソコン通信とインターネットの勢力が拮抗していた頃だと思う。まだ草の根のパソコン通信ホストも存在していたし(私も自宅ホスト局を運営していた)、大手パソコン通信では Nifty-Serve(ニフティ・サーブ)が大手を振っていた。Nifty-Serve は、今で言うところの"人が集う場"という意味では 2ch 的な立場にあったと言えなくともない。インターネットでは Netscape Navigator(今の Firefox, mozzillaの前身) がシェアの殆どを握っていた。それに今は廃れた News Group も元気だったと記憶している。

 なぜインターネットでは実名を名乗ることを選んだのか?

 それはパソコン通信(草の根、大手 Nifty 等)ではハンドル・ネーム(所謂ペンネームみたいもの)ありきだったのに対して、インターネットでは実名が前提(だったように思うけど、違うかな? newsgroup の void 氏は別。)に見えた。そこに私は「新しい可能性」を見いだしたから実名で活動をすることになり、今日に至る。

 その「新しい可能性」とは? なんというか、パソコン通信には閉塞感を感じていた私がそこに居た。閉塞感の正体とは、匿名性がゆえの社会閉鎖性、ではなく、日本の社会全体を覆う「村社会」的なコミュニティの形成に対する閉塞感に対するものであった。村社会というのは「和を持って尊しとする」という日本最初の憲法に記されるほどの「和」の尊重を指す。古来、日本では和こそが社会秩序であり、和を乱そうとするのであれば「何やってるんだ、お前?」というような、今で言うグーグル八分ではないが、それこそ本当に村八分になって社会からは爪弾きにされるのが日本の村社会である、と定義させていただきたい。

 さて、当時のパソコン通信やインターネットに対する世論(もしくはマスコミ)の風潮は「仮想世界で何ほざいてんだ?おまいら」であったと思わる。「仮想社会」の所以は匿名(ハンドル名)を使って掲示板で交流する様が、それこそ当時の風潮からすると「何か恐ろしいことをやっている存在」に思えたようだ。

 尤も、パソコン通信やインターネットが現在のように有名(一般化する前)になるまでに、オウム真理教事件(関連事件をまとめて)とネットの繋がりを指摘される事があった。今でも覚えているのが「霞ヶ関サリン散布ゲーム」がネットを通じて配布された時のマスコミによる過剰反応である。こんな(ゲームを配布する)ようなネットは危険だ!そこに集っている連中もオウムのように危ない連中に決まっている!!ともいったような糾弾状態。

 当時は私はもうネットの中の人だったので、私としては「は、そんなの一部だろ?」といった感じだったが、世の中は仮想社会=下層社会という風潮で満ちていたように思う。それに、元々 JUNET 時代からのインターネットの住人からすると、パソコン通信は邪道と思っている所があったんじゃないかと思う。基本的に NewsGroup は実名で所属を名乗るような所だったので、パソコン通信のような匿名は邪道に見えたのではないだろうか。実際、歴史的には JUNET のほうが古いし、いや、パソコン通信もそれなりに歴史はあるが、異なるコンピュータのネットワーク間接続は異文化の衝突そのものであり・・・きりが無いのでこの程度に、結論からすると、当時パソコン通信 vs the internet という構図は既にできあがっており、fj.usage 等で色々楽しい(?)論議が交わされていたのを覚えている。

 他にも、大手パソコン通信の Nifty-Serve のフォーラム(会議室にある電子掲示板)でも参加条件が「実名」の所もあり、理由としては「実社会との繋がりを重視するため」といったような趣旨あったような気がしないでもない。今でも確認してみたいのだが、残念、Nifty-Serve はパソコン通信サービスを昨年(2006年3月)終了させているため確認できない。

 そういった時代背景もあるのだが、インターネット(当時の私の目に映った the internet )は、どちらかというとパソコン通信の持つ閉塞感を打破する可能性を求めた。パソコン通信はパソコン通信で楽しいのだが、それは「和の文化」といえば聞こえが良いが、裏を返せば実のところ、日本の社会そのままをネット上で「匿名」という形で実社会である所の「閉じた文化=村社会」を再構築しているにすぎなかったのである。

 それで、インターネット(the internet)を見てみると、パソコン通信が1つのフォーラム(Nifty-Serveの場合)や草の根BBS(パソコン通信ホスト・主に個人が運営している所を草の根と呼んでいた)で閉じているのに対し、インターネットがずいぶんと開かれた社会に感じた。

 なんというか「社会が変わる」という可能性をインターネットに感じた。
 情報革命。情報化社会が招く「革命」。
 そうだ、これは社会が変わるんだ、革命の瞬間なんだ。
 そう思った。

 だから、匿名(ハンドル)を棄て、インターネットでは実名を名乗った。

 私は、コンピュータ・ネットーワーク(インターネットもパソコン通信も)が仮想社会(下層社会)という現実社会の Layer (層)と重複しているのではなく、現実社会と一体化したネットワークを求めていた。村社会ではない、新しい社会の到来を予感した。

 だから、インターネットでは匿名(ハンドル)を名乗らず、本名をそのまま通す事にした。

 ・・・それから約10年が過ぎようとしている。

 私は一応、それなりの理想を掲げて個人で実名を出してネットでは活動をしてきた。だが、振り向いてみると、気がつけば実名で活動する事より「名無しさん」もしくは「ハンドル」といった「匿名」を選ぶ人の方が多いようだ。

 実際、たとえば SNS の mixi を見てみると、何というか「村社会」の再現をネット上で再構築しているにすぎないように見える。確かに日本的なコミュニティだ。2ch やその他各種掲示板やメーリングリストに至っても、基本的には「匿名」で活動している人のほうが多いだろう。暴論だが、簡単に書けばネット上の社会も、日本の現実社会でいうところ「村社会」を再構築しているのに過ぎないので、「A」というう命題に対して「B」という提示を行うだけで荒らしと見なされ、村八分が起こる。逆にこうも書いてみよう、たとえば所謂本当に揚げ足取りの「荒らし」がネット上に存在する訳だが、そのネット上の彼(彼女)は日本の現実社会に存在する誰かであり、そういう輩の毒の吐き場としてのネットって一体何?という思いと、実社会でそんな事言っていたら本当に村八分者だぞという彼(彼女)が実在している現実に驚愕したりもする。なんなんだ、この2重構造思考な日本社会は、と私は思ってしまうのだが。

 やはり、日本社会は依然として「村社会」であり、ネットとは、現実世界の上位もしくは別次元の「Layer (層)」にすぎないのだろうか。実名(もしくはコテハンでもいい)で動くと荒がたつ、日常生活で支障をきたす、なぜなら、日本社会は「建前」と「本音」という精神の二重構造を抱えて動く社会であり、現代人は日常で「建前」・ネットで「本音」を使い分ける為にネットを使うのではないか?と考えてしまう。

 今は、単にそれだけのためにネットは弄ばされ、日常世界の捌け口、もしくは日常の隠れ蓑としてネット社会が存在しているのではないか、と思うと残念である。ネット世界は現実世界と同じ時系列上にあるにかかわらず、別の次元で同時進行しているようにも見える。ネット社会が、である。現実世界に生きる、私たちが、である。

 気がつけば今日のインターネットという存在は携帯電話を経由して、10代を始め、幅広い世代を巻き込み一大ネット文化圏を形成しつつある。でも、それは未だにパソコン通信で私が感じた閉塞感通りの「村社会」であり、インターネットは単にベクトル(方向性)が違う日常の「村社会」の再構築にすぎない、ようにも思えるのだが。

 マスコミ(世論)の論調も、いつの間にか「ネット=悪」から「ネットには良い点もあれば悪い点もある」と切り替わってしまっているように思う。なんだかな。ネットに住む住人ですら、例えとして適切かどうか分からないが、ちょっと前の 2ch 閉鎖騒動においても見受けられるのは「おらが村を守るべ」といった、やっぱり「村社会」根性丸出しが一部見受けられたのは非常に残念な事だった。私はネット匿名社会の是非を問いたいのではなく、2ch 利用者から違う方向性が産まれなかった事に落胆している(ま、それはそれで面白いと思うし<曖昧表現なので補足「匿名社会」は「匿名社会」で面白い、の意味2007/02/21>、本当に。実際私はパソコン通信というホストを運営していたし、その「村社会」上でも、更に「匿名」(本当に誰が書いたか分からない)掲示板を作ってみたりもした)。2ch が潰れるなら、じゃ、2ch の抱える問題点を解決して、新しい方向性を提示して、そこに人が移るというプロセスは残念ながら発生しなかった。結局の所、日本人には匿名である「村社会」的なネットワークが似合っているのだろうか。じゃ?お前が始めろって?(ま、出来るなら何とかしてみたいです。今は何が一番良いのか、模索中。問題提起だけでゴメンなさい)

 このあたりは日本の風土というか、民俗学的にちょっと真面目に考察してみると面白いレポートが仕上がりそうだが、私は学生でなければ、その手の研究者でも無いので、深いつっこみは、その手の専門家の方々に任せることにしたい。


 以下参考文献って、自分のです、おまけ。すみません。
 初稿は 1998 年 2 月 3 日( 9 年前!?)。当時公開のプロバイダは FITWeb で原文そのまま。文章稚拙(結論がなかったり)ですけど、ま、そこは若さ故のなんとやらで。

メディア総研 [#004:February 3]
 『いまだにゲームのせいだなんて』

これは、ある本からの引用です。

「いまの中学生たちはむっつり押し黙って自分の殻のなかに閉じこもって思考を働かせる。物事を主観でとらえていて、用意にそれをまげようとしない習慣がある。突っ込んで問いただせば黙り込んでしまうのだ。反抗にしてもいまは立ち上がってわめくのではない。黙って背を向けるのである。ひとりの人間としての人格を主張し、プライバシーの侵害を拒否する。概して静かで何を考えているのかわからないという不可解な面のあることが、ひとつの風潮のようにひろがっている。」

 これはいつの本だと思いますか? いまじゃないんです。引用したのは「中学生 その日々」(望月一宏 著/岩波新書(黄)17)という本。これは1977年に発行されたものなんです。

 さかのぼること20年前。正直なところ僕は『なんだ、今も昔も全然かわっちゃいないんだ』と思いました。あなたはどうですか?

 今をときめく中学生・高校生は「戦後第二の校内暴力のピーク」とか騒がれています。でも、第一のピークだった昭和50年代前後。あのころに今のような批評がなされていたでしょうか? 色々本を見てみましたが、当時そのような考えはなかったようです。

 未だに「子供たちがおかしいのはゲームのせいだ!」とか「バーチャルな世界に浸ることで」とか「アニメが現実と仮想の区別を…」とか、こんなレベルの話がされてるなんて……。ワイドショーやテレビの批評家屋さんが喜んで言いますからねぇ。「近頃の子供たちは」と。

 「ゲームが悪い」というテレビを真に受けないよう、気をつけていたほうがいいかもしれません(^-^;

 だって、テレビも目の前に実在しない、という意味ならばゲームやアニメと何ら変わらないんですよ…。

 ゲームやアニメといった世界は、僕らが実際に生きている空間と区別がつくものです。むしろ、ニュースという真実と呼ばれる者を報道する一方で虚構を限りなく現実に見立てるテレビ。こちらのほうが危なくないでしょうか。僕が小学生の頃は「テレビは一日2じかんまで」という夏休みの決まりがあったような気がします。テレビはイケナイ!と言うのが許されたのは、ゲームやアニメが今日のように発達するまでだったのでしょうか。

そこの所、注意していった方が絶対いいとおもいます。本当に論議すべき点は他にあるんですから…。「こんな日本に誰がした!」なんて叫ぶのは誰にだって出来ることだと思う。自分で評論家と称してテレビに出るんだったら、学校がどうしてそうなってきたのか、現実をどうしればいいのか、どういうふうに対処しなければいけないかを考えていくほうがいい。……テレビに任せてないで、僕らも。ちょっとづつでいいから、自分の身の回りかな変なところ、見直していきませんか?

 最後にもう一度その本から引用します。


 いま、少年の非行をどうとらえるかについて、あたらしく問題にすべきときがしているかもしれない。非行、非行、……といつまでも騒ぎ立てたり、追いかけたり、嘆いたり、うろたえたりしていても、いっこうにらちがあかないし、結局、何ものこりはしない。

 そう、結局何ものこらないまま、変わらないまま、あれから20年が過ぎ去った。

 どうも府に落ちないんです、ゲームやインターネットが人間をおかしくするという考えに。

 「インターネットが現実と仮想の区別をつかなくする」っていう人もいます。が、「じゃ、それをメーリングリストで発表しているキミはどうなんだ?」と思うんです。ネットの事を自分から非難しておいて、自分はネットで発言している。矛盾していますよ。これじゃ自分で自分のことを「自分は犯罪者予備軍で~す」と自ら宣言しているみたいです。

 上の例えは極端としても……。

 これに似た考え方で「原発反対」というのも当てはまると思うんです。「原発に反対!」、じゃ、君たちは電気をストップした生活を送りなさい、と。(現在の発電というのは、一般的に深夜の発電は原子力発電でが主。日中、人間が生活したり電気を使ったりで、それに併せて火力発電所・水力発電所が稼働していきます。正午をピークに再び火力・水力発電所の利用率は下がっていきます。えー、ですから、環境問題を唱えるのであれば、自ら節電することで火力やガス発電所の利用をわずかながら低下させることが可能です。1人では微々たるものの、みんなでやれば…。電気の需要さえ下げれば、これ以上原発を建設しなくても良くなるんです。たとえば北陸電力の場合能登半島に志賀原発2号機を建設する予定があります。これは100kw以上の需要があと10年でありそうだから、いまのうちに建設しておこうと。原発1基で130kwの電力が得られます。)

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2007年02月17日 22:02に投稿されたエントリーのページです。

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